相模原市議選に向けて始動します!
- 日本共産党 上野たつや
- 9月2日
- 読了時間: 4分
改めまして…上野たつやって?
私は、横浜市青葉区で生まれ育ちました。家族は、妻と子ども2人(小学4年生、3歳児)です。
結婚を機に、姓を佐藤から上野へと変え、妻が生まれ育った相模原市での生活を始めて10年が過ぎました。
なぜ、横浜市から県議会議員に?
私は、大学卒業後に横浜市内の保育所で9年間、管理栄養士として子どもたちの食を支える立場で仕事をしてきました。
同時に、”子どもの育つ環境”や”保育所の労働環境”をより良いものにしたいと、労働組合や保育運動(署名活動など)を、横浜市内を中心に活動。
頑張って集めた署名(請願)が、議会では理由もなく残念な扱いを受ける状況を目の当たりにし、私たちの声を届ける議席が必要だ!
との思いで、立候補を決意。このような背景があり、相模原市内に在住しながら、2019年から4年間、横浜市神奈川区から県議会へ送っていただき、活動を続けてきました。
たとえ居住地ではなくとも、神奈川区民のみなさんから託された議員として、その思いに応えられるように、私なりに全力を尽くしてきたつもりです。
しかし、議員としての活動を優先すればするほど、家族に負担を押し付ける形となり、一緒に過ごす時間は削られていきました。顕著に表れたのは、選挙を半年前に控えた頃からだったと思います。
「36年ぶりに勝ち取った県議会の議席を守り抜くために、できることは最大限する。地域のみなさんの期待に応えたい。」
そんな思いから、選挙の年である2023年1月からは、家族の顔は、ほとんど寝顔しか見たことが無く、選挙期間中は、家に帰らずに寝泊まりを続けました。
議席を失う結果になってしまいましたが、後悔のない奮闘を行うことができたと思っています。
生活に政治を近づける活動を
ただ、この活動スタイルは、日本共産党が、参議院の挑戦を続けるあさか由香さんが、目指しているたたかい方とは真逆でした。
生活を置き去りにし、家族に負担を押し付けなければ、支えてもらわなければ、活動が続けられませんでした。
「24時間働ける人でなければ議員にはなれない」そんな活動を当たり前としてきた結果、女性の政治参加のハードルは未だに高いままです。そんなつもりは全くありませんでしたが、振り返れば、私もその一員となってしまっていることに気づかされました。
一端立ち止まって、活動のあり方を見直す必要がありました。
生活者の目線で市政を変えたい
活動の拠点を相模原市に移し、家族との時間が以前よりも増え、生活を大切にしながら政治活動をする中で見えてきたことがあります。
例えば、子どもの医療費。
乳幼児期って、本当によく調子が悪くなりますよね…。
何かあってはいけない!と思うからこそ、すぐにお医者さんに診てもらいたいと思いますが、無償化であることに安心します。
一度、子どもが熱性けいれんを起こし、救急車で運ばれることがありました。子どもの無事に安心しつつ、医療費ってどうなるんだろう…?とやはり心配してしまったことを思い出します。
18歳まで対象は拡大されたことは嬉しいですが、所得制限や窓口負担が残っている以上、親の収入に左右される状況は残っています。
また、子どもの居場所。
家にいるだけではストレスたまってしまう時に、近所にこどもセンターがあり、大小に限らず公園や広場があるだけでなく、市営プール、アイススケート場、博物館や文化施設など安価で気軽に遊べる場所があるって本当にありがたいんです。
でも、予算が無くて改修できないからと廃止される施設がある。
学童が学校に併設されているのは、ありがたいけれど、子どもが多すぎて教室で過ごさなければならず、子どもから「教室だとつまらない…」と言われてしまう。そもそも小学3年生までしか利用できない。
学校のトイレ改修はなかなか進まず、体育館は灼熱。
交通環境は?
将来、介護が必要になった時、環境は充分だろうか? などなど…
ライフステージが変わるたびに、出てくるであろう「不安やハテナ」に応えられる市政になっているでしょうか。市長が進めてきた”行財政構造改革プラン”を始めとした政策は、私たちの暮らしに寄り添っているとは言えない実態を肌で感じています。
そして、米軍基地があることによって、騒音被害、米兵犯罪などの不安が常に付きまとう。
相模原市で住み続けたいからこそ、生活者の視点で、今の市政に歯止めをかけ、暮らしの実態を届ける議席がどうしても必用だと強く感じ、市議会への挑戦を決意しました。
子どもとあなたの暮らしに、ゆとりと安心を。
現在、残念ながら中央区は、日本共産党の議席がゼロとなってしまいました。
必ず!失ってしまった議席を回復するために、全力を尽くす決意です。
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